30時間トーク
今週末、30時間トークがあります。ここ何回か、続けてきたトークはいろいろと考えさせられるものでした。昨日は、とあるアーティストと、脱原発、ベーシックインカムについて少し話をしました。それぞれ、手に入れたいものではあるけれども、でもどうやったら手に入るのか。また、30時間トークの打ち合わせを兼ねた話し合いも。とにかく、会って話すことは、やはり重要なのでしょう。
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今月から、相模大野駅の近くに、100?ぐらいのスペースを開きます。来年の3月までと期間限定ですが、いろいろと面白い使い方ができそうです。興味のある方は、ぜひご連絡ください。ネーミングに苦慮しています。「クンストハレ相模大野:準備室」、「アートセンター女子美:準備室」、これらの組み合わせ。短縮形は、KS:PR、ACJ:PR、pr-KS、pr-ACJ、どれもしっくりきません。
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今年のart & river bankのdog's deathも、楽しみにしてください。いろいろ、驚きの展開になるはずです。
奥村さんのこと
奥村さんとちゃんと面と向かって話したのは、冨井さんの企画したCAMPでのトークのときになるはずだった。僕は奥村さんの質問が面白かったので、話しかけようとしたのだけど、喧嘩腰でまくしたてられた。この件に関しては書き方が難しいんだけど、僕がある人との往復書簡で彼の活動について触れた表現とその内容に関してで、後日メールでやり取りさせてもらって、表現の一部に関しては謝罪して、他の内容に関しては、僕の姿勢を説明させてもらった。少し歩み寄れた感じもする。Na+や、大学院GPの報告展"It is not an art center"では、作品を出展してもらった。奥村さんは、作品だけでなく、種々の活動をひとつの表現としてとらえているような感じがするのだけど、それをただすと、どうもやんわりとそんなことはありませんと逃げられてしまう。そのあたりについて、もう少し突っ込んで話せたらという気がします。
田中さんのこと
田中さんと直接話をしたのは、今年、Na+の刊行記念パーティのとき、しかもSkypeでだった。つまり、実際に会うのは今度が初めて。Na+に関しては、討議も含めてだけど、田中さんも出展されていた2008年のクワンジュのビエンナーレでの体験が僕の出発点だった。他国が期待する日本のステレオタイプということだったけど、考えるきっかけを与えてくれた展示だった。田中さんの言う、討議などアートの実践と、作品や表現との関係というテーマは僕も深く共感するもの。またそれは、blanClassでの僕の発言と関係しているように思う。最後に、これは富井さんからのまた聞きなので正確ではないかもしれないけど、僕が2008年に出版した『ナノ・ソート』に関して批判されていたらしいということを耳にしている。その批判は、僕と田中さんの相違点かもしれないので、関連している場合はそれについても話を聞けると、と期待しています。
富井さんのこと
3人のなかで、もっとも古いつきあいになるのは富井さんだ。僕がart & river bankを始めたのがおよそ10年前で、始めてすぐぐらいからの付き合いだと思う。富井くんは、a&rbで2回個展をしている。1回目のあと、同じことをするのはやめようねと話し合って、2回目は少しイレギュラーな展示となった。僕は、富井くんの、作品以外のところをずいぶんおもしろがっていて、それで、彼の開梱指示書を、インスタレーションのレシピとして展示することにした。CAMPの彫刻関連のトークではにべもなく否定されたけど、既定の枠組みをまずありきと考える立場の反応としては想像していたものだった。ただ壁ぎわでの年末トークで、森田浩彰さんに、杉田さんは富井くんの作品は好きじゃないよねと指摘されたことには考えさせられた。富井さんの種々の実践と、彼の作品の関係は、今回のトークの原点なのかもしれない。
パーン、クアランテリ、リンギス
ガイアの怒りから生まれたともいわれる怪物テュポーンの襲来に慌てたパーンは、山羊と魚のキマイラとなって逃げ惑ったという。レベッカ・ソルニットによって紹介され、エリート・パニックの説を唱えたとされるキャスリーン・ティアニーが師事したエンリコ・クアランテリは、パーンの醜態を語源とするパニックの痕跡を探し求めたが見つからなかった。彼が、そしてティアニーが、正確にはティアニーの同僚のカロン・チェスとリー・クラークが見出したのは、パーン類似の状態に陥った大衆ではなく、そうした状態を幻覚して混乱する一部のエリートの醜態だった。エンタテイメントの映像の中で繰り返し生産されてきたパニックはなく、ソルニットによればむしろそこには、奇妙な共同体意識に基づいた倫理と統制があった。この、自発的に生まれた共同体意識は、アルフォンソ・リンギスの《何も共有していない者たちの共同体》にも通じるものがありそうだ。
情報の正確な伝達を放棄したマス・メディアは、明らかにティアニーの言うパニックに陥っている。また一方、繰り返し嘆かわしい状態を喧伝するばかりのネット上での知識人たちの狼狽ぶりは、むしろストレートにパーンの醜態に通じている。もちろん、震災後の原発の問題を楽観視する気になどなれないのは言うまでもない。だがたとえば、過剰発ガンに関する資料には、あえて過大な計算を行っているものもあり、それらの資料を右から左に拡散させてしまっては、むしろ反原発運動に関する信頼度を低下させてしまうことにもなる。あるいは、一貫して反原発の姿勢を貫いてきた原子力関係者に対して、盛んにそれを持ち上げる傾向にも疑問が残る。彼らもまた当事者であり、彼らの思想や意志を今日ほど普及できなかったという意味では彼らにも責任があるはずだ。大学のポストをあえて望まなかったという研究者にしても、そのことで彼の人柄を語るのではなく、その姿勢をとったがゆえに、彼の見識、思想が、より以上に広まることが阻害されたのではと想像してみるべきだろう。もちろん、哀れな一面をさらしてしまった気鋭の社会学者や哲学者など(そんな人たちいたっけ)についてはいうまでもない。
繰り返しになるけれども、今知性に求められていることがあるとすれば、精神にとってのアジールをどう築くことができるかということにつきる。それは嘆きでもないし、誰かを称揚することでもない。その手掛かりは、ソルニットやリンギスに倣うまでもなく、窮状のただ中を生きる人々のなかにあり、すでに僕たちは十分それを目にしている。