パーン、クアランテリ、リンギス

ガイアの怒りから生まれたともいわれる怪物テュポーンの襲来に慌てたパーンは、山羊と魚のキマイラとなって逃げ惑ったという。レベッカ・ソルニットによって紹介され、エリート・パニックの説を唱えたとされるキャスリーン・ティアニーが師事したエンリコ・クアランテリは、パーンの醜態を語源とするパニックの痕跡を探し求めたが見つからなかった。彼が、そしてティアニーが、正確にはティアニーの同僚のカロン・チェスとリー・クラークが見出したのは、パーン類似の状態に陥った大衆ではなく、そうした状態を幻覚して混乱する一部のエリートの醜態だった。エンタテイメントの映像の中で繰り返し生産されてきたパニックはなく、ソルニットによればむしろそこには、奇妙な共同体意識に基づいた倫理と統制があった。この、自発的に生まれた共同体意識は、アルフォンソ・リンギスの《何も共有していない者たちの共同体》にも通じるものがありそうだ。

情報の正確な伝達を放棄したマス・メディアは、明らかにティアニーの言うパニックに陥っている。また一方、繰り返し嘆かわしい状態を喧伝するばかりのネット上での知識人たちの狼狽ぶりは、むしろストレートにパーンの醜態に通じている。もちろん、震災後の原発の問題を楽観視する気になどなれないのは言うまでもない。だがたとえば、過剰発ガンに関する資料には、あえて過大な計算を行っているものもあり、それらの資料を右から左に拡散させてしまっては、むしろ反原発運動に関する信頼度を低下させてしまうことにもなる。あるいは、一貫して反原発の姿勢を貫いてきた原子力関係者に対して、盛んにそれを持ち上げる傾向にも疑問が残る。彼らもまた当事者であり、彼らの思想や意志を今日ほど普及できなかったという意味では彼らにも責任があるはずだ。大学のポストをあえて望まなかったという研究者にしても、そのことで彼の人柄を語るのではなく、その姿勢をとったがゆえに、彼の見識、思想が、より以上に広まることが阻害されたのではと想像してみるべきだろう。もちろん、哀れな一面をさらしてしまった気鋭の社会学者や哲学者など(そんな人たちいたっけ)についてはいうまでもない。

繰り返しになるけれども、今知性に求められていることがあるとすれば、精神にとってのアジールをどう築くことができるかということにつきる。それは嘆きでもないし、誰かを称揚することでもない。その手掛かりは、ソルニットやリンギスに倣うまでもなく、窮状のただ中を生きる人々のなかにあり、すでに僕たちは十分それを目にしている。