東谷くんのこと

東京国際フォーラムで開かれた第3回アートフェア東京(2008)の関連イベント「ダイアローグ in アート」のなかの「アジアの国際展、次の10年へ」は、僕にとって印象深い出来事だった。シンガポールビエンナーレの芸術監督や、光州ビエンナーレのコキュレータ、南京トリエンナーレのキュレータを招き、僕がモデレータを務めた。議論というよりは、各国際展の紹介という傾向も強かったため、前半部分はそれも仕方のないことかとあきらめ、後半に何か議論ができればと思っていた。前半の紹介が終わろうとしていたとき、それは起こった。一人の男が会場後ろから大声を上げて乱入してきた。「ダメダメ、こんな議論意味がない」。東谷くんだった。彼は当時、釜山ビエンナーレのキュレーションも担当しており、パネラーとしてその場にいてもおかしくなかった。「議論になってない議論に。それに、僕のやってる釜山のことについても触れていない」。もっともだった。苦虫を噛み潰したような顔をしている隣の登壇者を無視して、彼を前方のパネラー席に招き入れ、そのことでやっと議論らしきものが始まった。会場からも南京やシンガポールについて、政治的背景についての考慮はどうなのかという主旨の質問があったように記憶している。そのとおりだった。光州ビエンナーレでは、光州事件の記憶が反芻されている。パネラーに転じた東谷くんは、自身の意見を述べつつも、節度ある態度で、おとなしくその役を演じてくれた。議論は意味のあるものに転じたと思う。少なくとも僕の隣で他の発言者の発表時に中古車サイトをブラウズしていた登壇者や、政治的な意味で微妙な土地での開催であるにもかかわらず、そのことを正面から取り上げて説明しなかった登壇者よりも、彼の姿勢は真摯だった。だからこそ、CAMP主宰で開催されたChim↑Pomの「ピカッ」を巡る討議の場で、彼がモデレータを務めているにもかかわらず、その問題を正面からとりあげようとせず、「公共性」の話に逃げようとする彼に対して怒り、もっとそのこと自体を話そうと提案したのだ。また別の討議の場で、また別のかたちで出会えると思っていた。