昨日で

3年間、実質的には2年半にわたって行ってきた文部科学省のプロジェクト、大学院GPが一応終わった
みんな、お疲れさまでした。これからも、いろいろ協力してください


終わりはいつもさびしいものだけれども、かつて給料をもらっていたことがあるのだけど、
そこを辞めるときは本当に晴れやかだった
仕事場を出てすぐ、かつて銀座、正確には新橋にあった、Tony's Barに、一緒に辞めた友人と行った
いま辞めてきたんだけど、何か相応しいものを
トニーさんは、しばし考えて、黄金いろに輝く、ジンベースのカクテルを出してくれた
ビジュー
本来は、グリーンシャルトリュ―ズで作るんだけど、色が悪くなるから
このほうがきれいだし、華やかでしょ
悪戯っぽく笑ってくれたトニーさんも、彼のお店も今はもうない


...

書きとどめておくことにする

最近起こった出来事で、どうしても納得できないことなので、書きとめておくことにする。所属する大学の学生が、父親に連れられてボランティアに参加し、原発から30km少しのとことで、側溝の土砂の除去を行った。防塵マスクもしなかったという。こうしたこともあるので、ボランティアについて、大学側が規制するのではなく、ガイドラインを示し、それに基づいて個々が判断するようにしてはとある会議で発言した。と、出席者の一人で、アートによる地域振興の第一人者でもある教授から叱責された。政府が安全だと言っているから安全なのだし、大学がそれに関与するべきではない、と。一瞬声を失った。アート・イヴェントに関しては行政側の態度を批判することもある彼にとって、けれども、これだけ種々の問題が噴出している被ばく関連情報に関しては、鵜呑みにするべきだというのだろうか。彼の年齢では、おそらく、現在進みつつある被ばくの影響を知ることはできないだろう。これは、どういうご都合主義なのだろう。復興に深くかかわっているという自負については、もちろん、忘れることなく言い加えられた。キャスリーン・ティアニーが述べたエリート・パニックは、おそらくこんなかたちでも表明されてしまうということなのかもしれない。いずれにしても、こんな醜悪な判断からは、決してアートは生まれることはないだろう。

真実の戯画の真実

たとえそれが戯画に過ぎないとしても、いやそうであればなおのこと、何にもまして目の前の現実の、意識されることのないある一面を捉えているということはあるだろう。例えば、荒海の波間で心細そうに揺れている一人の男が、ヘリコプターで宙づりにされて助け出され、束の間、海岸沿いのプールに浸されたかと思いきや、再び宙に引き上げられ、元の荒波のただなかに置き去りにされるとき、どうしてそれを人生に重ね合わせることなしに済ませることができるだろうか(Éxodo, 脱出)。私たちは、この苦難と救済、そして再びの絶望という終わりない循環が、まさに自身の人生にもあてはまるということに、哀れな男に対して半ば同情からの、けれども同時に残酷でもある笑みを浮かべているその最中に、いやというほど気づかされることになる。そしてまさにその悲哀と冷笑、そして嘲りとがない交ぜになった感情が、自身の人生そのものに対してのものでもあるとういうことに、しばらくしてやっとのことで思い至り、深い憂愁に囚われる。あるいは宙に引き上げられていたのと同じ男が、猛り狂う散水ホースを抑え込もうと奮闘している様を目にするときも、その滑稽な悪戦苦闘ぶりと、手に負えそうで負えないホースの暴力的な奔放が、男をいいようにあしらう様子に腹を抱えながら、けれどもそれが自身の過去の記憶のどれかひとつと密かに響き合っていることに気づくやいなや、ここでもまた気持ちは鬱がないわけにはいかない(O encantador de serpentes, ヘビ使い)。

けれどもだから作者が、そうつまりジョアン・タバラが、人生を遠くから眺めやり、それを冷笑しているかというと、そうではないのは言うまでもない。なぜならそれは、あの宙を舞っていた哀れな男が、彼本人であるからだし、暴れまわるホースの撒き散らす水と、高圧水が巻き上げる泥土を全身に浴びていたのもまた、彼自身に他ならないからだ。そしてまた、少し注意深く映像を思い起こせば、再び時化る海に下ろされようとする男が、どことなく自信ありげに事態を受け入れているようであったり、繰り返し暴れまわる大蛇に立ち向かおうとする男の足取りが、華やかではないが自恃の念を抱く誠実な性質のものと認められるからだ。戯画は再び性質を変えて、胸の奥底に染み入ってくる。タバラの演じる男の滑稽や悲哀、失敗は、いつしかそれとは対極のものに姿を変えていく。そうちょうどそれは、ピエル・パオロ・パゾリーニの、例えば“Mamma Roma”の登場人物の、熱情や純粋、愚かさや不実、哀しみや惨めさが、けれどもだからこそ、崇高や美しさでもあることに似ている。パゾリーニのためにと題された作品があるのは偶然ではない(Ballata Del Suicidio, Working Class Angels, For Pasolini, 自殺のバラッド、労働者階級の天使、パゾリーニのために)。やがて画面を覆い尽くしていく航空機の翼端灯のひとつひとつは、そうした人々のかけがえのない人生という戯画の明滅を示している。誰もがやがて迎える死に向かって繰り返していく悲喜劇、バラッドを凝視めることは、パゾリーニに倣うまでもなく、決して悲観的なことなんかではない。

忘れないように...

ケジャン ソンジ ユニさん モダン・コリアン ピッグノーズ レクチャー 市場 ブルガリアン V オレンジ堪能 帰国 タイホー 旅ボケ メルトアップ 定食屋TV シオジリング あ、忘れてた ヤバイ ビタウォー  

失われたピルゼン

ピルゼンにはよく行った。本当に、よく行ったと思う。ビールは本当においしかった。ライオンもいいけど、どうもメジャー過ぎて、ピルゼンの方が、何かしっくりとした。でも、ザワークラウトボルシチも、そんなに食べものには想いはなかったように思う。ただ、その雰囲気は本当に好きだったし、食べものにしても、ただ口がお子ちゃまだけだったような気もする。ピルゼンの閉店は、誰かからなんとなく聞いたような気がする。何か、失われて初めて、その価値がわかったような気がする。初夏、まだ陽の残る時刻に、空いている店内で飲むビールも、固い木製の椅子を、無理言って詰めてもらいながら、煙草の煙にまかれながら騒然とした店内で呑むのもまたよかった。もう一度、復活しないかな...。

熊うっちゃり

久しぶりに熊うっちゃりで呑む
僕にとっての熊うっちゃりは、むら八で、トドたたきではない
むら八もすごい名前だけど、いかつい外見とは違って、マイルドで気持ちいい
いくつかひいきのものの名前は消えていたけど、シーズンじゃないかららしい
熊うっちゃりには、名前よろしく、熊のような写真家と行くようになったのだけど
どうもその熊をうっちゃれずに、寄り切られていることの方が多い

最近、ヘベとレケの本を読んでいて
飲んでいるのによくこんなに覚えているなあと思っていたんだけど
僕はずいぶんといろいろなこと忘れちゃうんだけど、記憶のかなたに素敵な店がいくつもあるから
ときどきそれを書こうかな...

あれ、銀座で昔、牛乳割りだしてた店どこだっけ? あれ、スエヒロ? あれ、あれ???

謎めいた話

先日、目の前で実際に進行していたインタヴュー   
なぜ、Na+にかかわったのですか?
それについてはgpから話さなくては...
あのちょっと待ってください。gp?
そうです gpです。gpということでは、もともとにこぷんもそうなのですが...
あのちょっと待ってください。にこぷん??
そうですにこぷんです。にこぷんにはいろいろあって、私はボイシャキなんですが...
あのちょっと待ってください。ボイシャキ???
...
わかる人にはわかる、なぞめいた話でした