精神のアジール

カンディードでも描かれているが、震災後の秩序維持のために、見せしめとしての極刑や鞭打ちという発想は短絡過ぎる。たけしのその旨の発言は、もちろん実現されないことを見越してのものではあるだろうが、ハインリヒ・フォン・クライストの『チリの地震』でも描かれているように、マスヒステリーが思わず行ってしまう愚行を侮ってはならない。リスボン大震災に触発されて、哲学者イマヌエル・カントによって今日の地震学が始まったことは、ヴァルター・ベンヤミンを介してよく知られているが、ヴォルテールでもなく、むしろカント的な振る舞いこそに、生活の基礎を奪われていない立場の人間は努力するべきだろう。

哀悼の意を示すために種々の催し物を中止・自粛することについては、いろいろな意見がある。けれども、自身の関わるアート関連のイヴェントに関しては、しかも生活基盤が確立されている地域の人間としては、過剰な電力消費などがない限り、行うべきだと思う。もちろんそのことによって、強く非難される場合もあるかもしれないが、そのこと自体からこそ学ぶべきことがあると思う。サラエボソンタグ、トウキョウのヴィヴィアン、……。

トウキョウは、風向きによっては完全な安全地帯というわけではないけれど、僕たちは精神的なアジールを築くことはできる。