スパーゴ

cidadebranca2005-09-14

の『フーコーとクイア理論』を読む。以前読んだことがあるが、あらためて読み直した。乱暴だが、印象的な断片が並び、最初読んだときの感動が蘇ってきた。未整理なかたちの問いかけも、むしろだからこそより強く何かを表現している。ただ、以前も気にかかったが、解説がその本の印象を台無しにしている。解説を書いている哲学者の他の雑誌論文には学ぶべき点も多いが、ここではむしろ不要で醜悪なものになっている。スパーゴは、いやこのシリーズは、そもそもこうしたアカデミズムに自閉している人々の手から、アクチュアルな理論を解放するためのものだと思うのだが、おそらく彼には、ここで自分が犯していることを理解できないだろう。なんという厚顔。クィア理論を語りつつ、その傍らでこうしたアクチュアルであるべき思考をアカデミズムに収奪してしまうようなテクストを書き加えるとは。さらには、自らが指摘している、ゲイについて語る人たちが自らがゲイでないと断りを入れるという無意識の暴力を、自らも犯していることにも、おそらくこの哲学者は気づかないだろう。もちろん、この哲学者を糾弾することが目的ではない。おそらく彼の醜悪な姿は自身のものでもある。僕自身、講義の中で同じような身振りに気づいたことがある。もう10年以上も前のことだが、そのときの感覚は今でも鮮明に蘇ってくる。おそらく、そうした愚行から逃げ去ることは、そもそもできないのかもしれない。ただ、他者の記したまったくそうした痕跡を感じさせないテクストの傍らに、それに対する配慮のかけたものを並べる愚は犯すべきではない。十分に辛辣になった。こんなかたちで、最近知人から紹介されたクィア理論についての新刊本を手にとって大丈夫だろうか?いや、大丈夫ではないと思う。