真実の戯画の真実

たとえそれが戯画に過ぎないとしても、いやそうであればなおのこと、何にもまして目の前の現実の、意識されることのないある一面を捉えているということはあるだろう。例えば、荒海の波間で心細そうに揺れている一人の男が、ヘリコプターで宙づりにされて助け出され、束の間、海岸沿いのプールに浸されたかと思いきや、再び宙に引き上げられ、元の荒波のただなかに置き去りにされるとき、どうしてそれを人生に重ね合わせることなしに済ませることができるだろうか(Éxodo, 脱出)。私たちは、この苦難と救済、そして再びの絶望という終わりない循環が、まさに自身の人生にもあてはまるということに、哀れな男に対して半ば同情からの、けれども同時に残酷でもある笑みを浮かべているその最中に、いやというほど気づかされることになる。そしてまさにその悲哀と冷笑、そして嘲りとがない交ぜになった感情が、自身の人生そのものに対してのものでもあるとういうことに、しばらくしてやっとのことで思い至り、深い憂愁に囚われる。あるいは宙に引き上げられていたのと同じ男が、猛り狂う散水ホースを抑え込もうと奮闘している様を目にするときも、その滑稽な悪戦苦闘ぶりと、手に負えそうで負えないホースの暴力的な奔放が、男をいいようにあしらう様子に腹を抱えながら、けれどもそれが自身の過去の記憶のどれかひとつと密かに響き合っていることに気づくやいなや、ここでもまた気持ちは鬱がないわけにはいかない(O encantador de serpentes, ヘビ使い)。

けれどもだから作者が、そうつまりジョアン・タバラが、人生を遠くから眺めやり、それを冷笑しているかというと、そうではないのは言うまでもない。なぜならそれは、あの宙を舞っていた哀れな男が、彼本人であるからだし、暴れまわるホースの撒き散らす水と、高圧水が巻き上げる泥土を全身に浴びていたのもまた、彼自身に他ならないからだ。そしてまた、少し注意深く映像を思い起こせば、再び時化る海に下ろされようとする男が、どことなく自信ありげに事態を受け入れているようであったり、繰り返し暴れまわる大蛇に立ち向かおうとする男の足取りが、華やかではないが自恃の念を抱く誠実な性質のものと認められるからだ。戯画は再び性質を変えて、胸の奥底に染み入ってくる。タバラの演じる男の滑稽や悲哀、失敗は、いつしかそれとは対極のものに姿を変えていく。そうちょうどそれは、ピエル・パオロ・パゾリーニの、例えば“Mamma Roma”の登場人物の、熱情や純粋、愚かさや不実、哀しみや惨めさが、けれどもだからこそ、崇高や美しさでもあることに似ている。パゾリーニのためにと題された作品があるのは偶然ではない(Ballata Del Suicidio, Working Class Angels, For Pasolini, 自殺のバラッド、労働者階級の天使、パゾリーニのために)。やがて画面を覆い尽くしていく航空機の翼端灯のひとつひとつは、そうした人々のかけがえのない人生という戯画の明滅を示している。誰もがやがて迎える死に向かって繰り返していく悲喜劇、バラッドを凝視めることは、パゾリーニに倣うまでもなく、決して悲観的なことなんかではない。