雨、風は東京に吹いてもいい

途上の農地を超えて...

所属している大学はいろいろな行事の延期を決めている。プロ野球のように電力を消費するわけでもないが、理由もわからないわけではない。ただ、関係している行事の被災を避けるためだけだとすればそれはおかしい。好きではないけれども、美大なのだから少しはソンタグのことも考えてみる必要がある。アンケートによると、被災地の出身者の多くは出席に関していろいろな問題を抱えているようだが、けれども決してやってほしくないというわけではない。奇妙な言い訳にならない姿勢はどこにあるのだろう。

TVの原発関係で一躍顔の知れたおしゃれな教員のいる大学の近くの呑み屋で、彼の名を呼び捨てにしながら自分だけの知っている原発関連事項の秘密を小出しにして注意を引こうとしている男がいた。察するに、原子核工学所属の、おしゃれ助教より上司の、つまり教授か准教授だろう。大好きな店だけど、店員のへつらいも気持ち悪くていやな気持にさせられた。そんなことしなくていいよ。しかしなによりもその男の低俗さ。悪酔いしないわけがない。

TVで原発関係者の発言を聞いていてわかったことがある。彼らに共通するのは、行為としてエネルギーを消費したということばかりで、結果がついてきていないことに対する反省がない点。最善を尽くしました、想定外でした。なにもこれは原発に限ったことではない。小さなアート・プロジェクトをやっていても、こうした姿勢に終始している人間は珍しくない。えてしてこの手の人は、大きな組織や、きっちりとした規律のなかに入ると、それに目覚めやすい。きっとそれは、そこがその人の居場所なのだということだと思う。そこでがんばって。

上空を漂っていた放射性物質は雨に流れおちて、植物を濡らし、大地に沁み入り、動物に摂取されて、濃縮されて人の体に残り、代を継いでいく。小さな惑星のうえに生じた悪の循環こそが、何よりも人間を象っていることが悲しい。