明日

Yが教えてくれた場所に行く予定。場所などをネットで調べていると「電脳社会の新たな胎動――廃墟にうごめくアート」という目を覆うテクストが。こうしたテクストを許している表現者に、何かできるのだろうか?心配がよぎる。空間の存在感だけが際立ってしまわないことを、テキストに対する不信を、見事に裏切ってくれることを期待しつつ……。

昨年末、学生たちと行った展示の記録が問題になっている。政治的な問題と学生との関わりを示すことを目的としたシリーズだったが、そのイメージが「広報」にそぐわないのだという。保身に費やすエネルギーを忘れ、何をするべきか真摯に考えるべきだ。関わってくれた広報の人には申し訳ないが、こうしたことで自身の活動を歪めないようにというハードルぐらいに考えておこう、ね!

学生から評価に対して疑問を示されることが多々ある。これにしても、ここで費やすエネルギーを、そもそも最初から用いていればと思われる。この類の諦念にはあきれるけれども、こうした申し出に対応する中で、学生にも教師にも、教訓が残ることは悪いことではない。むしろそこに先回りできないという意味では、教師側に非がある。