★★★ part 1 re-edited from the article for ”VOID”

手にとってみると、その意外な重さに驚かされるということがある。このなんでもないささやかな出来事は、けれどもずいぶんと示唆に富んでいる。まずそれは、★★★の抱えるどうしようもない限界を囁いている。★★★は、その物体の重さまでを伝えるものではない。またそれは、人間の思考が、目にしたものに対して過剰に働きかけるということも囁いている。人は、視線が捉えたものに対して、本来それが伝えることのない、たとえばその重さのようなものまでを、経験と照らし合わせて推察し、創り出そうとする。★★★風景が人間に与える(アフォード)ものがあるとすれば、手にとるとか腰掛けるというような行為ではなく、目の前の対象を世界の中に位置づけようとして、あれこれとその機能や性質を与えようとする一種の創造だ。手にとるという行為によって裏切られる創られた重さ。その経験は、行為と創造のどちらが先に引き出されるかを教えてくれる。

けれども、わたしたちはわたしたちの頭のなかで創造されたものが、果たしてそのとうりのものであるかどうか確かめてみるようなことはあまりしない。なぜなら、そんなことをしようものなら、目にするすべてのものに手を伸ばさなくてはならないことになり、ほとんど動きがとれなくなってしまうからだ。わたしたちは、創造したもののただなかを足早に通り過ぎてゆく。ひょっとしたら、通り過ぎた背後で、ビルはグニャリと折れ曲がり、枝から離れた葉っぱが自身の重さでアスファルトに突き刺さり、通行人は霧のように消散しているかもしれない。わたしたちが知っている、あるいはそう思い込んでいる世界は、わたしたちの背後で未知のものに姿を変えているかもしれないのだ。わかっているはずのものの背後にべったりと貼りついた無知、あるいは、見えているはずのものの背後にべったりと貼りついた見えざるもの。残念なことだが、そんなグロテスクで、けれどもわくわくするような事件は起こっていないようだ。日々の生活が支障なく過ぎ去っていくという事実が、わたしたちの創造した世界がそれどおりのものに過ぎないということを裏づけてくれている。

しかしそれでもなお、わたしたちは、わたしたちの視線の背後で起こっているかもしれない出来事をあまりにも無視し過ぎていると反省してみる必要がある。日常生活でそうすることは必要ないとしても、★★★に大きく依存するアートの場合は、その放棄が深刻な問題になることもある。例えば、政治的正当性(PC)が前面に出たドクメンタ11で、多くの映像や画像がドキュメントとして利用されていたことを考えてみよう。アトラス・グループやスタン・ダグラス、エイヤ・リサ・アハティラら、映像や画像を用いながら、同時にその脆さを意識させるアーティストがいなかったわけではない。けれども、ほとんどのアーティストは、映像や画像のドキュメントとしての資質に疑問を投げかるようなことはしていなかった。それは、ドキュメントとして利用するアーティストに限らず、アレゴリーとしてメディアを利用するアーティストにも共通して感じられた。これは、実に奇妙で、危険なことだ。もしそれらのドキュメントが捏造されたものであるとしたら?イラク戦争における捏造写真の問題を引き合いに出すまでもなく、現代の電子化されたドキュメントは、本質的に改変される可能性を抱え込んでいる。あるいは、アレゴリーを現実と錯覚するようなことがあるとしたら?何が現実で、何が虚構なのか、この繰り返されるべき問いは、PCという問題の前では不問に付してもよいというのだろうか。これらはすべて、通り過ぎてきた光景の裏側を訝るという態度の欠如からくるものだ。わたしたちの背後で、セットを片付けようとするスタッフが姿を現したり、スプラッタ・ムービーのポスターが陰惨な現実へと姿を変えているかもしれない。それと類似した事態が、映像や画像のなかで起こらないという保証はない。もっと、猜疑的でなければならない。少なくとも、背後の異変を嗅ぎ取る感覚器を鋭敏にしておくことは意味のないことではないはずだ。わたしたちは、わたしたちを取り巻く日常の世界が、わたしたちの背後で怪しく発光し、不気味に振動し、奇妙な上下運動をしていると想像してみるべきなのだ。